« 旅順 203高地 そして水師営へ | トップページ | 紅葉と銀杏の東京 今年の昭和記念公園 »

尖閣諸島領有権 日本が盗み取ったという精華大教授に反論する

”釣魚島列島は明治政府が中国から盗み取ったものだ” という知日派教授の苦渋の強弁である。

劉江永清華大学教授が、日本の尖閣諸島領有権を真っ向から否定する論文を今月8日付産経新聞に寄稿した。同大学国際問題研究所の日本問題専門家である。最高学府教授の論文は共産党政権の公式見解に近いものと思われる。中国屈指の知日派と言われるが、いかにも中国流の一方的な
論文で、とても看過できる内容ではない。

周恩来元首相も認めたように、中国は石油資源を目当てにして、1971年に突然、尖閣諸島の領有権を主張し始めた。それまでの80数年間という長い年月、中国は日本の領有について異議も抗議も一切していない。逆に日本領土であることを明らかに認めていた地図帳や国定教科書など、中国側の資料はあまりにも多い。しかし劉論文は、これらの事実にはいっさい触れていない。

ただ言及したのは、日本領土を示した、53年1月8日付の「人民日報」の文章と、中国で発行された58年版世界地図の二つの資料についてだけである。 この二つが日本側の根拠にならない理由を、論文は次のように主張する。

[1] 人民日報の文章は署名もなく、「資料」だけで書かれている。領土問題意識の低い編集者が、日本の資料を転用したミスではないかと思う
[2] 58年版地図の 「 国境線の一部は抗日戦争前の『申報』地図に基づき作図された 」 との説明が付いている----と。

50年以上前の「人民日報」に [1] のように資料転用のミスがあったと、今頃言うとは、苦笑させられる。中国共産党中央委員会機関誌の権威を汚すことにならないだろうか。
[2] も、国境線の一部とか、抗日戦争前の地図とか、学者らしくない言い訳ではなかろうか。

中国では学問においても言論の自由がないようだ。先の日中歴史共同研究でもそうであったが、中国の学者は客観的科学的な史実よりは、共産党独裁政権がつくりあげた史観に沿って主張する。清華大の教授といえども、言論統制下では、党の史観に基づいた”学問”とならざるを得ないのであろう。

-中国、尖閣沖に常時監視船 海洋権益確保へ強硬路線-と、一昨日の朝日新聞が報じた。中国が強硬路線に転じたことを裏付ける動きといえる。今年9月に完成した「中国漁政310」(2580トン)など、1千トン級以上の大型監視船を常駐させる。中国漁船の保護や管理、外国船監視などにあたり、退役した軍艦を改造したものもあるという。

中国は軍事的優位を確立してからそれを背景に領土を拡張すると言われる。 日中国交正常化時の中国側の領土棚上げ論は、中国に軍事的優位を確立するまでの猶予を得るための方便だったと言われる。 尖閣が日本領土であることは議論の余地がないにもかかわらず、中国はこれを力で強引に奪い取ろうとしており、これに対する日本の備えは全く不十分である。

産経新聞に寄稿された劉教授の論文  を下記(1)~(9)に示し、各項毎に、--で天上大風の考えを述べる。
「12・
8付-尖閣漁船衝突-伊藤正 中国総局長疑問点提起 」

(1)1978年10月、来日した鄧小平は釣魚島の主権について、日中双方はこの問題に触れないことで一致した。次の世代は我々よりも知恵があろうとの発言に対して日本政府は反論せず、黙認した。領有権の「棚上げ」に暗黙の了解があったことは、双方の共通認識であった。
--中国側の一方的な
主張である。反論せずとも日本は「棚上げ」を了解していない。領土問題は存在しないという立場故に反論も何もない。菅内閣も「約束は存在しない」と否定する政府答弁書 ( 2010年10月26日の閣議 ) を発表した--

(2)今回の事件では日本が国内法で処罰しようとして、釣魚島の領有権をさらに強調し、「棚上げ」の現状を変えようとしたから、中国側は一歩も引けない深刻な立場に追い込まれたことを理解してほしい。
--尖閣は日本の領土であり領土問題はない。したがって「棚上げ」の現状などあり得ない。

中国および台湾側が領有権主張を公式に行ったのは1971年以降である。それまでの80数年間、中国側は日本の領有について異議も抗議も一切していない。尖閣諸島が日本領土であることを明らかに認めていた。劉教授は何故これに触れないのであろうか。日本領土であることを示す中国側の資料が多数ある--

(3)釣魚島列島が明の時代から中国の領土であると証明する文献は数多く残っている。
--明の古文書に釣魚台の文字があり、舟で釣魚嶼を過ぎた、釣魚台を目印に航行したなどの記述があるだけである。近くを通った船が尖閣を見たと言う以上の意味はない。江戸時代の日本の書物にある地図の彩色などを主張の根拠にも挙げているが、当時の支那人の島への足跡は全くなく、中国領を示す国際法上有効な資料は存在しない。一方で劉教授は署名のない資料は証拠にならないとおっしゃる(下記(9)参照)が、明の文書に明国領と明記した署名文があるだろうか。無いのである--
--1743年:清の乾隆帝の勅命で編纂された地理書『大清一統志』の第335巻と同本収録の「台湾府図」において、それぞれ「北至鶏籠城」「鶏籠城界」と書かれており、鶏龍城(現・基隆市)が台湾の北東端であると記されている。すなわちこの書は、尖閣諸島が「台湾の一部ではない」ことを示す記録となっており、中国主張を覆す-との産経新聞の報道があった(2010・11・4付)。拓殖大学の下條正男教授の調べで分かったという。--

(4)釣魚島列島は明治政府が中国から盗み取ったものだ。1885年、明治政府は秘密調査して、釣魚島列島は清国(中国)領であり、無主地でないことを知り、占領することを躊躇した。馬関条約の交渉に先立つ95年1月、釣魚島の”占領”を内密に決定した。
--日本の外交文書を歪曲解釈し都合よく推論しているだけだ。
外務省の基本見解で「1885年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものです」 と示されている通りである。
「無主地でないことを知り」 ではなく 「無主地であることを確認した」 のである。合法的な領有権の確立である。--

--1884(明治17)年にはすでに、石垣島の古賀辰四郎氏が尖閣諸島に人を派遣して、アホウドリの羽毛の採取、海産物の採取などを行っている。

その後日本人が入植し、羽毛の採取や海鳥の剥製の製作、鰹節の製造などが行われた。鰹節製造は島の基幹産業となり、最盛期248人もの日本人が暮らしていた。この史実こそが国際法上の 「 無主地先占 (持ち主のいない土地は先に占有した国にその領有権がある) 」 であろう--
--劉教授の言い分は反日親中学者である京大教授井上清の主張と酷似している。井上は文化大革命を支持した学者であり、国際法の専門家ではない。明・清など支那人の足跡が全くない島だ。どの国も支配しない無人島への”占領”などあり得ないのである。--

(5)95年4月に結ばれた馬関条約で、清国が台湾およびすべての付属諸島や澎湖諸島を日本に割譲したので、釣魚諸島も当然その中に含まれていたと中国側は認識していた。釣魚島も台湾の割譲と同じ性質のものであることを指摘したい。
--1895(明治28)年4月に下関条約調印。日本は清朝から、台湾と澎湖諸島の割譲を受けた。これに尖閣諸島は入っていない。これより前の同年1月、日本は尖閣諸島を日本領に編入済みであった。劉氏の「釣魚諸島も含む」は成り立たない--

(6)新中国政府は、釣魚島の主権は中国にあり、カイロ宣言やポツダム宣言によって、台湾の附属諸島として中国に返還されたとの立場をとり続けている。戦後日本政府の「尖閣領有権」のいわゆる法的根拠である1951年のサンフランシスコ講和条約に対し、周恩来首相は、直ちに反対声明を発表した。
--これより前の1945年11月26日、尖閣諸島は「米国海軍軍政府布告第1-A号」により、米軍軍政下に入った。その後琉球列島米国民政府および琉球政府が管轄する地域に編入された。アメリカ空軍の防空識別圏も尖閣諸島上空に設定されていた。
この時期の中華人民共和国および中華民国で編纂された地図は、尖閣諸島を日本領と明記しており、中国領という認識はなかった--
--サンフランシスコ講話条約によって、尖閣諸島は沖縄の一部として米国の施政下に置かれた。従来より中国、台湾ともに、尖閣諸島が南西諸島の一部、すなわち日本領土
だと認めていたことを示す資料が多数ある。下記①~⑥⑧⑨⑫及び末尾の(※)参照 --

(7)70年以前に日本に対し領有権問題で直接抗議しなかったのは、釣魚島が米軍の占領下に置かれていたからだと思う。
--”戦勝国側である中国”の領土を米軍が占領下に置くはずがない。敗戦国日本の領土である尖閣諸島が米軍の占領下に置かれた。それは1945年だ。1880年代から太平洋戦争で米軍が占領する1940年代までの長い期間においても、中国が一言も抗議しなかったことに劉教授は何故触れないのであろう。中国はこの間、尖閣の領有権を主張したことが全くない。日本の領土であると認めていた紛れもない証拠である--

(8)当時の台湾当局も米国の影響下にあり、中国政府は米国に対し台湾からの撤兵を求めたが、その中には当然、釣魚島列島も含まれていた。
--南西諸島の一部である尖閣諸島は台湾とは全く別である。これを一体だとこじつけているのは都合の良い後出しである。尖閣諸島が南西諸島の一部だと認めていたことを示す資料が多数ある。たとえば 末尾の(※)。
第二次大戦後、当時の中華民国は、下関条約で失った台湾や付属諸島の主権を回復したが、それに尖閣は含まれず、沖縄県の一部として米国の施政下に置かれた--


(9)日本では、よく53年1月8日付の「人民日報」の文章や、58年に中国で発行された世界地図を「尖閣諸島」が沖縄に所属している根拠にしている。私の調べでは、人民日報のその文章は署名もなく、「資料」だけで書かれている。当時、領土問題意識の低い編集者が、日本の資料を転用したミスではないかと思う。それが中国政府の立場だと立証できるはずはない。もう一つの58年版地図には、「国境線の一部は抗日戦争前の『申報』地図に基づき作図された」との説明が付いている。56年発行の中国の世界地図は、釣魚島を沖縄所属領にしていない
--「人民日報」は中国共産党中央委員会の機関紙だ。署名があろうがなかろうが、共産党中央委員会が日本の尖閣諸島領有権を認めていたという紛れもない証拠である。当代一流の劉教授が”日本の資料を転用したミス”ではないかという。失礼ながら、笑止千万の根拠なき推論と言わざるを得ない--
--58年11月に北京の出版社が『世界地図集』として発行し、尖閣諸島を日本領として扱い「尖閣群島」と日本名で表記しているのである。「国境線の一部--抗日戦争前の『申報』--」は言い訳である--
--なお劉教授は注意深く、日本領ではなく沖縄所属領と表現する。沖縄は日本ではないとの意図が透けて見えるように思えるのは邪推か--

関連天上大風のブログ:尖閣諸島領有権  大国ぶる中国こそ
                               世論に怯える小国だ
              (※) :尖閣諸島 日本領土の根拠を主張
                               せよ  の中の -尖閣諸島の領有権に
                               関する年表- を参照。

付記:
【 1955年~1978年において、尖閣諸島が日本領土であることを明示した中国や台湾の資料など 】

①1955年3月16日に公布された琉球列島米国民政府布令第百四十四号「刑法並びに訴訟手続法典」の第二部罪・第一章定義の九(すなわち二、一、九)において「本法にいう「全琉球列島領域」とは、左記境界内のすべての土地、岩石、岩礁、砂洲及び海をいう。----」とあり、尖閣諸島はこの境界内にあるため全琉球列島領域に含まれていると、精密かつ明快に定義している。
②1960年、「世界地図帳」(北京市地図出版社)に「魚釣島」と記され、与那国島などとともに日本領側に記されている。
③1964年、中国大陸で出版された「中華人民共和国分省地図」で台湾省の最北端を彭佳嶼としている。 すなわち尖閣諸島は日本側となっている。
④1965年10月:中華民国国防研究院と中国(台湾)地学研究所編の『世界地図集第1冊東亜諸国』初版出版。尖閣諸島を日本領として扱い「尖閣群島」と日本名で和音表記。
⑤1968年8月12日:台湾のサルベージ業者が南小島で沈没船解体作業を琉球政府の入域許可を得ず行っていたことが発覚。退去させられたうえに、再度入域許可を得た上で残りを作業を続けたが、この措置に対し中国側および台湾側から抗議は無かった。
⑥1968年10月6日、台湾最大紙『綜合報』が、「琉球尖閣諸島 我国の漁船操業禁止(琉球尖閣群島 禁我漁船作業)」と題した記事を掲載。
⑦1968年10~11月、国連の学術調査で海底調査の結果、「東シナ海の大陸棚には、石油資源が埋蔵されている可能性がある」ことが指摘される。
⑧1969年、中華人民共和国が中国共産党が現在主張している「釣魚台」ではなく、日本が主張している通りの「尖閣諸島」と明記した地図を発行する
⑨1970年1
月:中華民国の国定教科書「国民中学地理科教科書第4冊」(初版)において尖閣諸島は日本領として扱われ、「尖閣群島が、日本領土である大琉球群島の一部」とされ、日本名(和音)が付されている。
なお尖閣諸島防衛協会発行の尖閣諸島写真集には中華人民共和国発行の社会科地図で、地下資源が確認される以前の1970年の南西諸島の部には、はっきりと"尖閣諸島"と記載され、国境線も尖閣諸島と中国との間に引いてある。しかし、地下資源が確認された以後の1971年の南西諸島の部では、尖閣諸島は;釣魚台;と記載され、国境線も日本側に曲げられている。

⑩1970年8月31日、琉球政府(日本に返還前の沖縄)立法院が尖閣諸島の領有権を主張する中華民国に抗議したうえで、その主張を放棄させるようアメリカ政府と日本政府に対し「尖閣列島の領土権防衛に関する要請決議」を採択。
⑪1970年9月:琉球政府は警察本部の救難艇「ちとせ」を尖閣諸島に派遣し、魚釣島に掲揚されていた青天白日旗を撤去。
⑫1970年9月10日、ロバート・マクロスキー米国務省報道官は、「対日平和条約第3条によれば、米国は「南西諸島」に対し施政権を有している。当該条約中のこの言葉は、第二次世界大戦終了時に日本の統治下にあって、かつ、同条約中ほかに特別の言及がなされていない、北緯29度以南のすべての島を指すものである。平和条約中におけるこの言葉は、尖閣諸島を含むものであることが意図された。当該条約によって、米国政府は琉球列島の一部として尖閣諸島に対し施政権を有しているが、琉球列島に対する潜在主権は日本にあるものとみなしている。」などとしたうえで、「主権の対立がある場合には、右は関係当事者間で解決さるべき事柄であると考える」と述べる(アンダーラインは天上大風による)。同
年9月17日、琉球政府は、尖閣列島の領土権に関する声明(琉球政府声明)を発表する
⑬1971年6月11日、中華民国(台湾)が外交部声明という形で尖閣諸島の領有権を主張。
⑭同年6月17日、沖縄返還協定に署名。「合意された議事録」において、「第1条に関し,同条2に定義する領土は,日本国との平和条約第3条の規定に基づくアメリカ合衆国の施政の下にある領土であり,1953年12月25日付けの民政府布告第27号に指定されているとおり,次の座標の各点を順次に結ぶ直線によつて囲まれる区域内にあるすべての島,小島,環礁及び岩礁である。---」として、尖閣諸島はこの区域内にあるため、沖縄返還協定の第1条の2に定義する領土に含まれている、としている。
⑮1971年12月30日、中華人民共和国が外交部声明という形で尖閣諸島の領有権を主張。---中共の主張はすべてが後出しである。
⑯1972年5月15日、琉球が日本に返還され、再び沖縄県となる。
⑰1972年7月28日、周恩来が竹入義勝に対して、中国が石油資源を目当てにして、尖閣諸島の領有権を突然主張し始めた、ということを認める発言をした。
⑱1972年9月27日、周恩来が田中角栄に対して、石油の問題があったから、中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めたということを認める発言をした。
⑲1978年4
月、最高指導者鄧小平は、この時発生した尖閣諸島沖の中国漁船領海進入事件について、日本側の照会に対して「全く偶発的であり、中国政府としてはそのような事件を起こすことはない」と述べた。「中国政府が尖閣諸島の領海侵入事件を起すことはない」ということである。

以上①~⑲より前の1920年、中華民国は石垣村村民に対し、「日本帝国八重山郡尖閣列島」と明記した公式の「感謝状」を贈っている。
これらについても劉教授はいっさい触れていない。

|

« 旅順 203高地 そして水師営へ | トップページ | 紅葉と銀杏の東京 今年の昭和記念公園 »

国際」カテゴリの記事

政治」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事